1952年
- 静岡県浜松市にて
小島清掃社を設立 -
1952(昭和27)年4月、自宅にて「小島清掃社」を創業。忠平、このとき23歳。同月、浜松市清掃課に届出を行い、し尿・ごみの収集運搬を行う汚物取扱業を開始しました。11人兄弟姉妹の一番下の四男、高道の手を借りてのスタートでした。
創業当初はもちろん現在のようなバキュームカーやパッカー車などの車両はなく、リヤカーを引いてごみを回収していました。やがて三輪貨物自動車を利用するようになり、少しずつ収集エリアを広げていきました。
1954(昭和29)年7月1日、清掃法が施行され、浜松市ではし尿の収集運搬については、市の認可を受けた小島清掃社を含む民間収集業者12社が行うようになりました。
1964年
- 小島清掃社を法人化し、
小島清掃株式会社を設立 -
1964(昭和39)年7月、対外的な信用を高める目的もあり「小島清掃株式会社」に法人化しました。資本金は50万円とし、初代代表取締役社長に忠平が就任しました。翌1965(昭和40)年には、新たに2t小型三輪ダンプカー1台・2t小型三輪普通車3台・2t小型四輪ダンプカー1台・小型バキュームカー9台を購入しました。
車両の増台によって駐車場が足りなくなったため、1967年、本社を移転しました。場所は、従来の本社から北西へ少し離れた静岡県浜松市有玉南町(現・浜松市中央区有玉南町)。現在の本社所在地になります。あくまでも駐車場を拡大するための移転だったため、新本社は平屋のバラックの簡素なものでした。
1969年
- 産業廃棄物処理への業態転換
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1969(昭和44)年4月、市内のし尿の収集運搬・処理などの事業を行う財団法人浜松清掃公社(現・一般社団法人浜松清掃公社)が設立されました。あわせて当時市民が排出していた、バキュームカー280台分に相当する480㎘/日のし尿の処理施設として東部衛生工場の建設が計画され、翌1970(昭和45)年12月に完成しました。
公社を設立した浜松市は、これまで民間業者に与えていたし尿の収集運搬の認可および車両などをすべて買い上げました。こうしてし尿の収集運搬業務を終了した小島清掃は、事業活動に伴って生じるごみや不要物(のちの産業廃棄物)の収集運搬・処分に事業の軸足を移し、あわせてし尿以外の家庭系および事業系のごみ(のちの一般廃棄物)の収集運搬・処分を行う事業会社へと業態の転換を図りました。
1972 年
- 静岡県浜松市中央区和光町に
最終処分場を設置 -
廃棄物処理業者にとって、収集した廃棄物を処理する最終処分場は経営を大きく左右する重要な施設です。当時は最終処分場を保有していないことで、営業に行っても断られることが何度もありました。反対に事業者から廃棄物の処理を依頼されても、それを埋め立てる処分場がないために、泣く泣く断らざるを得ないことも少なくありませんでした。そのため、小島清掃は常に最終処分場を設置する用地を探し求めていました。
1972(昭和47)年9月、小島清掃は浜松市に届出を行い、和光町に最終処分場を設置しました。10万㎥程度の小規模のものでしたが、小島清掃が初めて本格的に廃棄物の埋め立てを行ったのがこの和光町の最終処分場です。
1977年
- 初の安定型処分場を設置
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1977(昭和52)年4月、小島清掃は浜松市の産業廃棄物処分業の許可を取得しました。同月、大久保町の2カ所に小島清掃としては初の安定型処分場を設置。この大久保町の安定型処分場には、大手輸送機器メーカーおよび関連製造業者などから発生していた廃プラスチック類を主に埋め立てていました。
しかし、思わぬトラブルが発生。2番目に設置した安定型処分場は谷間にあり、石膏ボード類も埋め立てたため浸透水が汚れてしまい、汚水として下流域へ流出してしまったのです。その結果、下流域周辺の住民から苦情があがり、改善策として排水処理施設を設置して対応しました。地域住民からの信用を失いかねない苦い経験でしたが、中間処理の必要性、重要性を認識する貴重な機会となり、廃棄物の「収集運搬」「中間処理」「最終処分」の一貫処理体制を構築する端緒となりました。
1970年代~1980年代初頭
- 地元中小企業の顧客の拡大
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日本経済が右肩上がりの成長を続けていた1970年代から1980年代初頭にかけて、地元中小企業や家庭から排出される廃棄物の量は増加の一途をたどっていました。こうしたなか、小島清掃は安定型処分場を保有している強みを生かし、地元中小企業への営業に注力しました。
取引先はこの頃、地場産業として発展を遂げていた繊維業者をはじめ、輸送機器関連メーカー、医療機関など、およそ500社に達しました。特に総合病院や診療所などの医療機関の廃棄物については、医師会や保健所との関係が強かったため、ほぼ一手に引き受けていました。