HISTORY

ミダックグループについて
70周年のあゆみ 70th since 1952

ミダックグループは、2022年4月に70周年を迎えることができました。
創業から70年の長きに渡って、事業を継続してこられたのも、ひとえに地域住民の皆様、お客様、金融機関様、株主様などのステークホルダーならびに従業員の貢献によるものです。深く感謝申し上げます。

ミダックグループは、これからも社会・お客様のニーズに応え、最上級の満足を頂けますよう、「安心・安全」をキーワードに、皆様から信頼され信用される企業であり続けるよう、全社一丸となって邁進してまいります。

これまでもこれからも、人と地球を次世代のために、水・大地・空気を未来につなぐミダックグループの更なる発展のために、なお一層のご支援、ご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。

70TH おかげさまで70周年 さらなるステージへ

HISTORY

創業者 熊谷忠平
創業者 熊谷忠平
創業者の熊谷忠平は1928(昭和3)年、11人兄弟姉妹の8番目として静岡県浜名郡積志村で生まれました。戦後、浜松市は復興を遂げるにつれ、人口も次第に増加していきました。それに伴い、多くの量が発生するようになったのがし尿やごみでした。それらの処理が浜松市の施設だけでは対応しきれなくなり、山川や道端への不法投棄が横行していました。なんとかしなければいけない逼迫した状況を見かねた忠平は、それまで手がけていた商売を人に譲るなどし、自らがし尿やごみの収集運搬を行うことを決意しました。当社グループは、創業当時より人の困っていることを助けるという誠実な気持ちは変わっていません。創業当時は現在のような明文化された行動指針こそありませんでしたが、確実にその精神は受け継がれ、今後はさらに企業文化となり生き続けるものと確信しています。

創業・黎明期 〔1952年〜1983年〕

1952年

当時の「小島清掃社」
静岡県浜松市にて
小島清掃社を設立

1952(昭和27)年4月、自宅にて「小島清掃社」を創業。忠平、このとき23歳。同月、浜松市清掃課に届出を行い、し尿・ごみの収集運搬を行う汚物取扱業を開始しました。11人兄弟姉妹の一番下の四男、高道の手を借りてのスタートでした。

創業当初はもちろん現在のようなバキュームカーやパッカー車などの車両はなく、リヤカーを引いてごみを回収していました。やがて三輪貨物自動車を利用するようになり、少しずつ収集エリアを広げていきました。

1954(昭和29)年7月1日、清掃法が施行され、浜松市ではし尿の収集運搬については、市の認可を受けた小島清掃社を含む民間収集業者12社が行うようになりました。

1964年

移転後の本社
小島清掃社を法人化し、
小島清掃株式会社を設立

1964(昭和39)年7月、対外的な信用を高める目的もあり「小島清掃株式会社」に法人化しました。資本金は50万円とし、初代代表取締役社長に忠平が就任しました。翌1965(昭和40)年には、新たに2t小型三輪ダンプカー1台・2t小型三輪普通車3台・2t小型四輪ダンプカー1台・小型バキュームカー9台を購入しました。

車両の増台によって駐車場が足りなくなったため、1967年、本社を移転しました。場所は、従来の本社から北西へ少し離れた静岡県浜松市有玉南町(現・浜松市中央区有玉南町)。現在の本社所在地になります。あくまでも駐車場を拡大するための移転だったため、新本社は平屋のバラックの簡素なものでした。

1969年

当時の車両
産業廃棄物処理への業態転換

1969(昭和44)年4月、市内のし尿の収集運搬・処理などの事業を行う財団法人浜松清掃公社(現・一般社団法人浜松清掃公社)が設立されました。あわせて当時市民が排出していた、バキュームカー280台分に相当する480㎘/日のし尿の処理施設として東部衛生工場の建設が計画され、翌1970(昭和45)年12月に完成しました。

公社を設立した浜松市は、これまで民間業者に与えていたし尿の収集運搬の認可および車両などをすべて買い上げました。こうしてし尿の収集運搬業務を終了した小島清掃は、事業活動に伴って生じるごみや不要物(のちの産業廃棄物)の収集運搬・処分に事業の軸足を移し、あわせてし尿以外の家庭系および事業系のごみ(のちの一般廃棄物)の収集運搬・処分を行う事業会社へと業態の転換を図りました。

1972 年

静岡県浜松市中央区和光町に
最終処分場を設置

廃棄物処理業者にとって、収集した廃棄物を処理する最終処分場は経営を大きく左右する重要な施設です。当時は最終処分場を保有していないことで、営業に行っても断られることが何度もありました。反対に事業者から廃棄物の処理を依頼されても、それを埋め立てる処分場がないために、泣く泣く断らざるを得ないことも少なくありませんでした。そのため、小島清掃は常に最終処分場を設置する用地を探し求めていました。

1972(昭和47)年9月、小島清掃は浜松市に届出を行い、和光町に最終処分場を設置しました。10万㎥程度の小規模のものでしたが、小島清掃が初めて本格的に廃棄物の埋め立てを行ったのがこの和光町の最終処分場です。

1977年

当時の安定型処分場(静岡県浜松市中央区大久保町)
初の安定型処分場を設置

1977(昭和52)年4月、小島清掃は浜松市の産業廃棄物処分業の許可を取得しました。同月、大久保町の2カ所に小島清掃としては初の安定型処分場を設置。この大久保町の安定型処分場には、大手輸送機器メーカーおよび関連製造業者などから発生していた廃プラスチック類を主に埋め立てていました。

しかし、思わぬトラブルが発生。2番目に設置した安定型処分場は谷間にあり、石膏ボード類も埋め立てたため浸透水が汚れてしまい、汚水として下流域へ流出してしまったのです。その結果、下流域周辺の住民から苦情があがり、改善策として排水処理施設を設置して対応しました。地域住民からの信用を失いかねない苦い経験でしたが、中間処理の必要性、重要性を認識する貴重な機会となり、廃棄物の「収集運搬」「中間処理」「最終処分」の一貫処理体制を構築する端緒となりました。

1970年代~1980年代初頭

地元中小企業の顧客の拡大

日本経済が右肩上がりの成長を続けていた1970年代から1980年代初頭にかけて、地元中小企業や家庭から排出される廃棄物の量は増加の一途をたどっていました。こうしたなか、小島清掃は安定型処分場を保有している強みを生かし、地元中小企業への営業に注力しました。

取引先はこの頃、地場産業として発展を遂げていた繊維業者をはじめ、輸送機器関連メーカー、医療機関など、およそ500社に達しました。特に総合病院や診療所などの医療機関の廃棄物については、医師会や保健所との関係が強かったため、ほぼ一手に引き受けていました。

VISION

株式会社ミダックホールディングス 代表取締役社長加藤 恵子
株式会社ミダックホールディングス
代表取締役社長加藤 恵子
製造業など新しいものを作り出す「動脈産業」に対し、私たちが営む廃棄物処理業は「静脈産業」と呼ばれ、中小規模の企業が大多数を占めています。そのため、「動脈産業」に比べれば収益力・組織体制ともまだまだ十分な水準ではないと見られがちです。
しかし、人体で考えれば、どちらも同じように健全でなければ血液が循環できず、人は生きていけません。循環型社会の構築が求められる今日、経済界でも動脈・静脈とも同じレベルで健全であり続けることが必要で、廃棄物処理業界を底上げすることは社会ニーズに応えることでもあると認識しています。当社グループは、常に業界をけん引していくという気概を持って、適正な廃棄物処理を追求し、「業界の底上げ」を図ってまいりたいと考えています。
これまでもこれからも、人と地球を次世代のために、水・大地・空気を未来につなぐミダックグループの更なる発展のために、また、私たちに課せられた大きな使命と責任を果たし続けるために、なお一層のご支援、ご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。